※2006年7月、こまばアゴラ劇場にて収録。(「ソウル市民三部作連続上演」パンフレットから転載)
(前回からの続き)
■植民地支配
関川:ほんとに三部作で終わりですか?
平田:まだわからないけど。だんだん辛くなってくるから、書くのが。
関川:それはなんとなくわかる。書くとしたら最後の作品は引き上げになったりするんでしょう。そのときあの女中さんだった人たちは何をしているんでしょう。朝鮮の場合、現在では「解放」とかいってますけど、空襲もなく実に静かな終戦だったわけで、はるかにひどい混乱はその5年後にくる。しかしいずれにしろ1939年とか45年とか、難しい時期にかかっていくわけで、書くのは辛いだろうけれども、僕は観たいな。
平田:そこはね、大変なんですよ。今回いろいろ資料を調べていて、29年あたりにソウルに暮らしていた人っていうのは、引き上げを経験してますから、そこまでのことがたいてい入ってはいるんですけど、保守派の人は最後まで頑迷だから、「もしも植民地支配がそんなにひどかったのなら、私たちはもっと悲惨な目にあっているはずで、無事帰って来れたんだから、私たちは悪いことはしていない」って、これもすごい論理ですよね。そういう人もいたかもしれないけど。やっぱり、それはちょっと違うだろうっていうかね。確かに、満州とか、特にソビエトとかに連れて行かれた人たちほどに悲惨なことはなかったようですけど、北で捕まった人はかわいそうだった。
関川:もう一つは、朝鮮の構造が、ソウルを例外として、あとは全部田舎なんですね。田舎に住んだ日本人と、京城で事業をやった人の経験の質は全然違うわけですね。それから、たとえばイギリスには大陸浪人(※1)なんかいない訳でしょう。
平田:いませんね。
関川:大陸浪人は、逆に現地人と妙に濃厚な接触の仕方をする。酒をくみ交わして悲憤しあったり、大アジア主義を説いたりする。そこへいくと、英国人はいっさい現地人と接触をしない。インドでは、象の方と仲良くしたりする(笑)。要するに、一視同仁的フィクションを掲げている限りは19世紀的枠組の世界では植民地支配を持てない。もっとも、日本も朝鮮が植民地だという建て前ではなかった。
平田:「併合」というすごい言葉を編み出しましたからね。
関川:植民地経営は、日本人にはまったく向いてなかったようです。
平田:西洋的な意味での植民地経営ではないですね。だから、植民地経営の質が全然違うんだっていう、そこがね、善悪とかのことではないと思うんです。今年、フランスで『ソウル市民』が2本上演されるんですけど、この前のジダンの頭突きの話まで含めて、今、植民地問題がまた大きな社会的問題になっていて、ま、国の方は保守政権だから植民地支配を正当化したいところもあって。そうなるとイギリスやフランスは、俺達はスペインやポルトガルよりましだったって言うわけなんですけど、その論拠でいうと、日本の方がずっとましになっちゃうんですね。だから、質の違いみたいなものを見ていかないと、「どっちがましだったか」っていう競争には意味がない。で、韓国側の論調もたぶんそこに問題というか、限界があると思うんです。西洋の植民地支配と同じ捉え方で、ただただ日本がすごく悲惨な統治をやったというと、客観的な捉え方ができなくなっちゃう。
関川:韓国の近代史観は、ヨーロッパ起源の事象や歴史にあてはめて解釈しようとする傾向がありますね。日本も60年代まではそうだった。その場合、ヨーロッパの一つの国のような韓国が、別のヨーロッパの一つの国のような日本にひどい目に合わされたという物語になる。その方が韓国人としては気持ちがいいらしいんだけれど、アジア的、または中華縁辺世界的リアリティは失われる。
平田:先週まで東南アジアツアー(※2)に行ってて、最後にジャカルタだったんですけど、バタビア(※3)の港町に、バタビアカフェっていうオランダが残したすごくきれいなホテルがあって、今もカフェとして営業してるんですけど、いわゆるコロニアル風という感じの建物ですね。その雰囲気がよくて、そこには夜にはジャズの生バンドが入るからって、うちの若い役者連中が、夜にも遊びに行ったらしいんですよ。そしたら、全然へなちょこジャズで、日本人が来たからっていうんで「長崎は今日も雨だった」をやってくれたって。みんな、そんなのを聞きたいんじゃないって、怒って帰ってきた。でもね、僕は、「おまえら馬鹿だなぁ、植民地支配っていうのはそういうもんなんだよ」って言ったんだけど。植民地支配が腐敗していく感じって、そういうものでしょう。コロニアル風なんておしゃれなものじゃない。
関川:ものすごく説得力のあるエピソードだなあ。
平田:だから、そのどうしようもない格好悪さとか、滑稽さを書きたいんです。たぶん、書きたいのは、そのことだけです。
(終わり)
※1:大陸浪人
明治から昭和前半期まで、中国大陸各地を放浪した日本の民間人の称。政治的理想を抱く者もいたが、不平士族や国家主義者が多かった。
※2:東南アジアツアー
青年団『東京ノート』東南アジアツアー(バンコク/クアラルンプール/ジャカルタ)。2006年6~7月 各国語字幕付きで上演。
※3:バタビア
インドネシアの首都ジャカルタのこと。オランダ領時代の呼称だが1942年~45年までは日本領だった。
カテゴリーアーカイブ: 「ソウルの日本人」関川夏央×平田オリザ – ソウル市民三部作(2006)パンフより
関川夏央×平田オリザ 「ソウルの日本人」(4)
※2006年7月、こまばアゴラ劇場にて収録。(「ソウル市民三部作連続上演」パンフレットから転載)
(前回からの続き)
■『ソウル市民』と韓国の今
関川:『ソウル市民』を観て、本当に憤った韓国の学生がいた、そう以前のパンフレットに書いてありましたが。何を憤ったんでしょう。僕はそういう気持ちにはならなかった。不思議な居心地の悪さ、むず痒いような辛さは感じたけれど。
平田:だいたいの人は大丈夫なんです。あと、もうね、これは89年に書いたんで、今とは全然違うんですよ、韓国側の受け止め方も。それはもう今は、韓国のお客さんがものすごく成熟してますからね、大丈夫なんです。
関川:登場する日本人全員が温和で穏やかで常識人で、悪い人はひとりもいないということに、逆にぞっとしましたが、旧植民地ってこうなんだと。
平田:もちろんデフォルメがあって、本当にそうだったかどうかは分かんないんですけど。でもね、ま、書きたかったのはそこなんですよ。韓国内でもいまだに、もうみんな実際には信じてもいないんだけれども、教育のレベルなんかでは日帝時代の日本人はものすごく残虐で、韓国側はみんな抵抗運動してるってことを教えるわけでしょう。昔は、そう教える必要が確かにあったんだと思う。でも、それは、もう成熟した国家同士なんだから、嘘を教える必要はないだろうっていう感じはありますね。で、そうじゃなくして逆に、あんな温和な人たちが植民地支配をという恐さの方が僕はあると思っている。つまりそれは、現代の私たちにも、そうなる可能性があるってことだから。その緊張感を、一本の芝居で書きたいと思った。
関川:本当に恐るべき作品だと思いましたよ。歴史的には、日本時代には朝鮮の人口増加率は著しくて、経済成長も日本プラスアルファぐらいありました。近代というものが突然導入されて、消費意欲、経営意欲が刺激され、「ソウル市民」と呼ぶべきものが成立したのも、この日本時代でした。そうだったからこそ、逆に「正史」としては否定したんだろうけれど。ただ歴史事実が無視される傾向は強いでしょうね。コリアにおける「教科書問題」はかなり深刻です。
平田:今回特に1929年の話を書くので、その資料を集めて、最近よく出ている嫌韓本みたいなのも読んだけど、要するに、みんな都合よく、歴史のある部分を切り取るから、本当に、20年代後半から満州事変まででものすごく景気がよくなって、30年代あたりっていうのは、一種の何かこう、高度経済成長の幸せな状態が起こるんです。そこらあたりで青春時代を送った人たちは、あまり日本のことを悪く言わない。たぶん、1910年から三・一独立運動あたりまでは厳しかったと思うし、日本人も植民地支配に不慣れだったから、メチャクチャなこともしたと思う。末端でいろんな事件が起こったはずなんだけれども。今、全部そういう年代ごとの細かい考察もなしにして、全部のっぺり、昔ながらの左翼の人たちは「植民地支配は全部悪かった」という話になるし、保守派は「いいこともたくさんやった」という話になるので、それはものの見方を、とても薄っぺらくしてると思いますよ、特に最近。
関川:『ソウル市民1919』に出てくる女中さんたちは感じのいい、穏やかな人たちで高等女学校なんか出たという設定?
平田:いや、そこまでの学歴は想定していませんけど、朝鮮人たちも、この家で育っている設定ですね。
関川:そうか、大正日本の家なんだ。だから、ああいう感じなんだ。
平田:これを韓国で演出してくれた李潤澤氏も言っていましたけど、父親から、昼間は石投げたりして、夜になると一緒にお酒呑んだりして、そういう話はよく聞いたって言ってました。
関川:三・一独立運動も、最初は石投げるようなデモじゃなく、おだやかな意思表示だったんじゃないですかね。もうちょっと波及してからは野蛮なことも起きるようになったかもしれないけど。
(続く)
関川夏央×平田オリザ 「ソウルの日本人」(3)
※2006年7月、こまばアゴラ劇場にて収録。(「ソウル市民三部作連続上演」パンフレットから転載)
(前回からの続き)
■韓国と北朝鮮
関川:平田さんの芝居は私、結構観てるんだけど、このお芝居だけ、なぜか最初観ていなかった。というのは、やっぱり民族主義者とかが出てくるんじゃないかなと恐れたわけですね。
平田:ははは。ま、普通は出ますからね、この手のものには。
関川:積極的に観ないようにしたって訳じゃないですよ。あくまでもたまたまなんだけど。今回、ビデオ(※1)を拝借して驚きました。そういう人が出てこない、それは、まあ当然のことなんだろうけど、一番びっくりしたのは出てくる日本人がみんなニコニコしていること。いい人たちなんだなぁ。ところが、それがだんだん居心地悪さを誘う。気持ちが悪くなる。
ところで、あの手品師、どこ行ったんでしょう?
平田:わからないです。
関川:あの手品の種って、くだらない種でしょう。
平田:そう、できるだけくだらなくしました。日本で食い詰めた手品師って感じですね。でもね、あれも、やっぱり調べていくとですね、ああいうものから入っていくんですよ、興行界も。演劇もそうです。韓国の近代劇の歴史は、東京に留学していて築地小劇場(※2)にいた人間が始めたってことになってるんだけど、実際にはその前に新派が行ってるんです。新派は劇場も建てたらしいんですよ。やっぱり受けるから、そういう股旅ものとかが。
関川:新派って、歌舞伎新派のこと?
平田:もう最初は本当に旅芸人みたいな感じで。で、劇場も作って、組織化もしていく。韓国の研究者によると、これも本当に面白いと思ったんだけれども、新派系の人は、朝鮮戦争のときに、全部北に逃げた。だから、いまだに、北朝鮮のニュースのアナウンサーは新派がかってるんだって。俳優も一番うまいやつは、みんな北に逃げたって。
関川:それは面白い。そのことと直接つながるかどうかわからないけど、北朝鮮っていうのはものすごく演劇的な印象がありますね。金正日の野望の根源は、演出家への憧れじゃないかな。北朝鮮という悲惨な演劇的空間の特徴は、ものすごく女性差別的であること。たとえば、少年宮殿(※3)にいる女の子などは小さいときから厚化粧で訪問客に媚びる。そのくせ汗くさい。女性はそういう存在だと認識されている。お姫さま映画ですね。そして平壌の街は映画のセットのようで、いわゆる張り物に近い。十何階の建物でもエレベーターはありません。あれらはテレビ映りのために存在する建物群で、実際には上階に人は住めず廃墟化しています。エレベーターが作れないだけではなく、水が上がらないからです。私たちが見ることができる北朝鮮は、すべて舞台装置なんです。
平田:なるほど。北朝鮮には何回ぐらい行かれてるんですか?
関川:3回。でも何回行っても同じですね。同じ演出方針の同じ舞台、同じ演しもの(だしもの)です。
平田:いつ頃いらしたんですか?
関川:一番最初は87年。北朝鮮が歴史上はじめて入れたグループの観光旅行でした。それから、89年、91年。一見謎に満ちているが構造は簡単で単純。だから、退屈な迷宮です。
(続く)
※1:ビデオ
平田オリザの現場9『ソウル市民』、平田オリザの現場11『ソウル市民1919』(紀伊國屋書店)
※2:築地小劇場
1924年に土方与志と小山内薫が開設した日本初の新劇の常設劇場および劇団。
※3:少年宮殿
学生少年宮殿のこと。平壌にある、少年少女のための課外サークル活動の施設。劇場、体育館、図書館を併設。学校が終わると、子供たちは宮殿に集まり、サークル活動を楽しむ。「宮殿」という名称は”子供は王様”と言われ大切にされているからという事由によるらしい。
関川夏央×平田オリザ 「ソウルの日本人」(2)
※2006年7月、こまばアゴラ劇場にて収録。(「ソウル市民三部作連続上演」パンフレットから転載)
(前回からの続き)
■ソウルの練習問題
平田:『ソウルの練習問題』(※1)は83年ですか?
関川:83年の暮れですね。
平田:僕はそれを持ってソウルに留学しました。
関川:それはそれは。
平田:あの本は、すごく画期的だったと思うんですが、一度お聞きしたかったのは、あれ、当時は風当たりが強かったでしょ?
関川:それが、あんまりなかったんですよ。反韓国・親北朝鮮的センスの日本人は、真面目でいい人で融通がきかないという感じだったんですが、彼らはまず、ああいう本は読まないか、読んでも黙っている。のちに90年代はじめに北朝鮮研究の本を書いたときも同じでしたね。朝鮮総連が集団的圧力というか脅迫をかけてきた時代でしたが、そちらも風当たりはあまりなかったですね。
平田:この『ソウルの練習問題』は、どちらの歴史観にも片寄らない、80年代までではほとんど唯一の本ですよね。
関川:そうかもしれませんね。ソウルオリンピックの頃までは、まだそうですね、そういうコリアに対するフラットな見方っていうのはそんなになかったですから。さきほど申し上げた、真面目でいい人で融通がきかなくて、それからちょっと才覚がないというタイプの人たちは、「かわいそうな遅れた韓国」にしきりに同情の念を表わしていたのですが、自分たちが文化的に韓国人に同情され差別されているとは夢にも思わなかったんですね。
平田:この前、岩波から出された本(『おじさんはなぜ時代小説が好きか』※2)の中で、「歴史を裁判官の目で見ない」と書かれてましたね。最初から関川さんはそうだったと思うんですけど、そのスタイルの影響を僕はすごく受けていると自分でも思ってるんですね。『ソウル市民』もそういうものを芝居で書きたいなと思って。今までの、特に演劇の場合は、非常にそういう偏った主張が強かったですから。植民地支配っていうのも、民衆はみんないつもかわいそうで、人民はいつも抑圧と戦ってて……。
でも、『ソウルの練習問題』は、なぜ書くに至ったんですか?
関川:外国に行ったことなかったんですね。79年には、僕はもう30歳になっていた。なのに外国へ行ったことはないし、カラオケもダンスもできない。一つずつつぶしてオトナになりたいと思った。で、韓国が近いから、一番安いかと思ったわけ。ほんとは違ったんだけど。
平田:ははは。
関川:韓国に行くと日本人はいじめられるらしいから、挨拶とか汽車の移動とかの言葉くらいは覚えていかなきゃいけないと思ったんです。それで多少勉強してから行ったんですよ。私も60年代の子。70年代の青年ですから日本の悪い影響を受けていて、韓国のイメージは色で言えば茶色でしたけれど、政情不安だから危ないとかイヤだなとかは、不思議と思いませんでしたね。で、行ってみてイメージの色が明るくなったとは言いませんが、普通の人々が賑やかに生きているんだと認識しました。
(続く)
※1:『ソウルの練習問題』
1980年代の韓国ソウルの人々の姿を瑞々しく綴った、関川氏初期のルポルタージュ。日本人の韓国観を劇的に変えた紀行文学の名著。
※2:『おじさんはなぜ時代小説が好きか』
岩波書店「ことばのために」シリーズ(全5冊)の1冊
関川夏央×平田オリザ 「ソウルの日本人」(1)
※2006年7月、こまばアゴラ劇場にて収録。(「ソウル市民三部作連続上演」パンフレットから転載)
■ソウルの春
平田:はじめて韓国に行かれたのは何年ですか?
関川:1979年です。
平田:それは、1979年のいつですか?
関川:12月なんですよ。
平田:じゃ、朴正煕(※1)が殺されて…、
関川:ちょうど2ヶ月ですね。
平田:じゃ、ソウルの春の…?
関川:どうでしょう、あの時期を、春と言っていいのかな?
平田:ちょうど、私はその時、日本にいなくて、ニュースも見てないんですね。
関川:朝鮮の場合、歴史評価があとから何度も変わりますから「ソウルの春」を情緒的現象と考えれば、それは、やっぱり1960年のいわゆる学生革命の方でしょう。ただ60年には、金日成への根拠なき信頼感にもとづく、あまりにも急激な統一指向があらわれて、かえって混乱してしまい、61年の五・一六事件(※2)につながる。五・一六事件のありかたは、日本の二・二六事件にちょっと似ていますが、北朝鮮に呑みこまれてはならない、そのためには政治的自由を抑圧しても経済を活性化する、そういう現実的指針は朴正煕の中でははっきりしていて、その意味では彼は大久保利通に似ていたんです。むしろ、混乱期のことを「ソウルの春」というわけで、韓国近代史では「春」の感覚が逆転しているわけです。だから、79年から80年にかけても「春」ともいえますが、それは北朝鮮の政治的プロパガンダが浸透した時期を示してもいますね。
平田:2002年のワールドカップのときに、たまたま韓国で仕事をしていて、準決勝を見に行ってたんです。そうしたら、全斗煥(※3)と金泳三(※4)と金大中(※5)が並んでサッカーを見てた。
関川:それはすごい。それこそが「ソウルの春」ですね。
平田:やっぱり、それは感動しました。すごい国だなと思ったんですよ、それは。お互い死刑を宣告し合った同士ですからね。
関川:まさに。70年代の日本では、韓国の政治犯が死刑宣告を受けると、みんな本当に死刑になると思ったんですよ。それにしても、韓国では頻繁に死刑宣告がされました。金芝河(※6)もそうだし、金大中もそう。だからよく抗議のハンガーストライキとか日本人はやりました。でも韓国人は、彼らが本当に死刑になるとは誰も思ってなかった。韓国の政治センスは、統治ではなくて徳治。だから、反省を明らかにすると死刑が無期懲役になるのではなくて、釈放されたりする。韓国には死刑判決をうけた政治家がたくさんいます。そういうコリアのセンスが理解できないままに日本人は圧政に反対したり、反政府勢力と「連帯」したりしてるんですね。はじめて僕が韓国に渡ったのは大統領暗殺事件の直後でしたが、街が暗いのはまだ電力不足だったせいだけど、夜など何処も、もうもうたる湯気でした。それは全部飲食店から出ている。つまり、食べ物は豊富にある。いたるところで会食している。日常は賑やかに続いている。いまは完全に先進国化して韓国人はひとりでもごはんを食べるけれど、原則としてはみんなで食卓を囲まないと幸福感を味わえない。
平田:そうですね。
関川:その、みんなでつつきあう鍋から、幸せそうな湯気が路地にあふれていたわけで、非常事態下にあるのに日常の平和の野太さを感じました。それだけでも圧政下に苦しむ韓国民衆といった、70年代日本でつくられたイメージを大いに裏切られました。もちろん街区の主要点には土嚢を積み上げて、兵隊はM16をもって警戒している。そんな緊迫感はありましたけど。
平田:あの頃の情報源というと、やっぱり『韓国からの通信』(※7)ですよね。高校生の僕でも読んでいた。実は、あとからあれを書いたと分かる池明観先生に、僕は直接韓国史を習ってるんですよ。。
関川:本当?
平田:えぇ、池先生は東京女子大に行く前に、ICUで教えていて、僕は武田清子先生のゼミにいたんですけど、武田先生なんかが支援活動をしていた。
関川:そうでしたか。遠い昔の話に思われますね。
平田:20年後に、ラジオの番組で、一度だけ電話を通じてお話ししましたけど、まさかでも、池先生が『韓国からの手紙』を書いていたとは、まったく思わなかった。
(続く)
※1:朴正煕(1917~79年)
韓国の第5~9代大統領(在任1963~79年)。1961年に軍事クーデタにより政権掌握。長らく独裁体制を維持したが、1979年10月に暗殺された。
※2:五・一六事件
1961年5月16日に朴正煕らがおこした軍事クーデタ。
※3:全斗煥(1931年~)
韓国の第11、12代大統領(在任1981~88年)。1980年から野党の政治家を逮捕し、これに反発して光州でおこった民主化デモを激しく弾圧した(光州事件)。1988年に光州事件の責任を追求され、死刑判決を受けた。
※4:金泳三(1927年~)
韓国の第14代大統領(在任1993~98年)。32年ぶりの文民出身大統領。在任期間中、さまざまな民主化改革に着手した。
※5:金大中(1925~2009年)
韓国の第15代大統領(在任1998~2003年)。光州事件の際、デモの首謀者として逮捕され、死刑判決を受けたが、アメリカへの出国を条件に執行停止となる、2000年に北朝鮮との南北首脳会談を実現し、この功績に対してノーベル平和賞が授与された。
※6:金芝河(1941年~)
韓国の詩人。朴正煕政権登場以降、反政府活動を行う。軍事体制を鋭く風刺した長編詩『五賊』を発表。
※7:『韓国からの通信』
1973~88年の韓国激動の時代に、T・K生(ペンネーム)により雑誌『世界』(岩波書店)に連載されたエッセイ。1994年に岩波新書として刊行。










