(前回の続き)
―ちなみに、「韓国三部作」があって『ソウル市民』初演を創った、という流れでいうと、『ソウル市民』を創り始めるときに、「この作品で勝負だ」っていう意識は最初からあったんですかね?みんなのなかに。
山内:うんとね、三部作の総集編、ていうか、いままで発見したことが全部注ぎ込まれてるんだ、ていう自覚はあった。で、だから『海神』再演で一休みしておいて、この作品で勝負だっていう感覚は全体としてあった。僕なりにも、いま思い出せるくらい、実験…脱構築していく1年間、1作1作のテーマっていうのがあって、それを全部ぶち込むんだっていうのはあった。ただ、これから94年、95年(『東京ノート』岸田戯曲賞受賞)までの苦しみの期間は長かった。
―『ソウル市民』初演が終わったときの総括はどうだったんですか?
山内:ここにさ、そのころオリザ父がさ、毎回毎回観て劇評を書いてくれたのがあるんだけどさ、
松田:アンケートにさ、すごいいっぱい書いてくれるんだよね。
山内:…なんか、「切れた」感じはとにかくあった。
松田:「ひとつ抜けた」というか、進んだってこと?
山内:うん、すごくあった。で、この次がもう『カガクするココロ』(1990年)なんだよね。もう、いきなり豊かな時間に変わった、って、はっきり『カガクするココロ』では思ってた。
松田:それで、『南へ』。私、復帰しました。
山内:で話前後するけど、初めて旅、アゴラ以外でやるときも『ソウル市民』だったし、そのあと93年に初めて海外(ソウル、プサン)でやるときも『ソウル市民』だったし、っていう。
松田:さっきの演技の話しだけど、この、最初のころは、うまい/下手とかっていうか、俳優側もいろいろ出来なかったから、オリザのやりたいことや劇団のやりたいことに沿おうとすると、とりあえず小さい声で、ぼそぼそしゃべることしかできなかったんだと思うね。今は、けっこう大きな声出したりとか日常的でない動きもやってるけど、昔それをやったらやった途端に、世界が壊れちゃったんだと思う。ここまでいろいろやってきて、大声出したりしても壊れないくらいの現代口語演劇の世界を、今創れるようになったから、今のほうが面白く見えるじゃないかなと。
―なんていうか、それぞれバックグラウンド、芝居の仕方がバラバラだったんじゃないかなと。この頃、90年代前半に青年団で芝居されてた出演者の方というのは。
松田:たしかに私が転位・21から帰ってきたり、足立(誠)さんや志賀(廣太郎)さんが入ってきたり。
山内:あと僕ら以外みんな学生だったんだよな…。
―ともかくそれを、オリザさんの配置でひとつの作品としてまとめるっていうことを探ることが中心にあったんですかね。稽古では。
松田:私が山ちゃんに聞きたいのはさ、私が来たときは、「全体の見え方は演出の仕事で俳優同士の話じゃない」っていうのは確立されてたじゃん。それはオリザが演出する最初からそうなってたの?
山内:それも今は変わってきても居るけど、当時はそうだったかな。いろいろな要因があるんだけども、ちょうどこのころ、役者間のヒエラルキーみたいなのが、俺がすごく嫌で。「役者頭」っていう言葉があるよね。
松田:…世間にはあるけど、青年団にもあったの?
山内:そういうようなことをやってくれみたいな話があって…でも「役者が役者にどうこう言うというのがあんまり好きじゃないんだよね」みたいなことで俺がそれを断ったんだよね。それはひとつあったんじゃないかな。なんでそれが嫌だったのか、って…それは俺の個性なんだけれども、要するに、演技している人が、どっちかがどっちかを、チェックするような眼差しになる、あるいはチェックされてるような感覚になる、その状況は絶対邪魔だと思ったんだよ。でお互いなにか言って、言うときってやっぱ闘いになりがちだったから、どっちが正しい/面白いということで。そこにちょっとした「この人は人気があるから」「キャリアが長いから」「歳が上だから」とかそういうのがちょっと入ったりすると、あっという間にパワハラになって、ただでさえ「目が芝居する」ことを取り除こうというときに、その相手にチェックされるみたいなことも、脱構築したかったんだよね。
松田:じゃあ、山ちゃんの、俳優の側からそういうふうにしていったんだ。
山内:それもあって、オリザの「割り付け」「囲碁」のイメージと、僕の志向が合った、ということだろうね。
松田:今はもう違うってこと?
山内:たぶん違うと思うよ。みんなお互い言い合ってると思う。みんな言い合うのは上手になったし、それだけ脱構築された後なんだよ。僕はそう思ってる。
…で、「どっち向いたらいいですか?」とか言うような、外から見たら驚愕するような状況になっていったんだと思うよ。
松田:私が戻ってきたときにはそうなってたからね。
―ちなみに、89年から91年くらいのときに、間を秒数で指定するような演出は、もうできてたんですか?
松田:あったと思うけどね、どうだったかな。でもさ『南へ』は劇場のエレベーターも使ってたからさ、確実にあったと思うんだよね、秒数的な演出。
山内:そうだよね。…そうそうそう、ちょっと話それるけど、あの、僕の個人的な意見なんだけど、93年の『ソウル市民』の韓国公演で、団員全員ハングルを覚えたじゃない?
松田:うん。
―聞いたことあります。
山内:そのときに、体と言葉を分けて芝居をするっていう体感は、できてたから膨大な量のハングルでの演技が実現したってのはあると思うんですよ。つまり、「言葉のほうにいくら負荷をかけられても平気だよ」っていう自信が出来かけてる。地点とか観てさ、ものすごい負荷がかかってるじゃない、言葉に。あれに似たような作業が、いくらでも耐えられるんじゃないかみたいな、アスリートみたいな気分があったのは確かなんだよね。だからハングルで、台詞を音として記憶して、体のなかに打ち込んで、「体と分離して芝居できるくらいの負荷は耐えられるぜ~」っていう、
松田:しかも「昼:日本語公演、夜:韓国語公演」とかそういうことやってたからね。
山内:っていうのが93年の『ソウル市民』のハングルのときだった。だから…そのあとの93年の冬の『暗愚小傳』のときにはもう、「頂点とった!」くらいの気分…体と言葉の分離具合と、エネルギーと、空間での遊び方と、「これができるのは世界で俺ひとり!」ってくらいのアスリートな気分はあったんだけど。
―『カガクするココロ』は、去年観たときに、ほんとにそういうことを楽しんでる感じの本なんだな…と思っていて。言葉が、「目の前の1人の相手に言ってる」のか、「2人まとめてに言ってる」のか、「聞こえてるよね」って感じで「空間にほうり投げてる」のか、独り言なのか、とか…言葉が細かく、ピースの積み上げ方でいろんな遊びが細かく連なっていて、そういうことにこだわってた時期というか。
山内:そうそう、まさにその通り。だから『ソウル市民』初演の次からその方法論を遊ぶこと、一気に「遊びタイム!」に入ったんだよ。それはあるんだよね。
松田:なんか前に言ってたよね?「90年代初めのオリザの戯曲は…」どうのって、
山内:そうそう、思い出した。それでさ…93年で天下とったと思ったんだけども(笑)、94年の『東京ノート』でまたガラッと色が変わったんだよ。『東京ノート』以前の戯曲は、裏読みがしやすいというか、サブテキストが作りやすかったというか。「こんな会話をしてるけど、ほんとはこんな事件が起こってますよ」っていう、出来事がつくりやすかったんだけども、『東京ノート』以降は出来事が作りにくくなっちゃったんだよ。
松田:書いてあるからね、全部、
―裏で展開するプロットがなくなっちゃった。
山内:身も蓋もなくなっちゃったんだよ。でしばらく再演が続いて、いよいよ『バルカン動物園』(1997年)なんてさ、もう出来事がなくなっちゃって、科学的なおしゃべりだけになってさらに身も蓋もなくなっちゃった。
松田:『カガクするココロ』は一見科学のお話をしているけど、裏読みすればどうとでも読めるんだけど、『東京ノート』とか『バルカン動物園』は、ともすれば浪花節にでもなっちゃうようなストーリーがもう戯曲に書かれてるからさ、
―プロットが1枚になっちゃった。
山内:ともすれば「お涙頂戴」みたいな。それもそうかもしれない。
松田:たださ、その薄い、単線のストーリーの周辺で、いくらでも豊かにしていけるから、裏で勝手に仕込むんじゃなくて、それに乗っかって、いくらでも豊かにしていけるってことに変わっていったってことじゃないかな。
山内:それはそうかもしれない。ただ俳優としての印象はすごく変わったと思う。
―さっき、「『ソウル市民』初演の後、94年、95年まで長かった」っていったような…フラストレーションというか、そういうことってのは、どうなったんですか。『北限の猿』で岸田賞ノミネート、95年に『東京ノート』で岸田賞受賞となるわけですけど、フラストレーションというかはいつ晴れたんですかね?
山内:それは…岡田(利規)さんの登場だったんだよね。やっぱり。岡田さんは、自分は平田オリザの影響を受けているって公言したんだよね。公言して、先に進む人が出てきたとき。
―そんなに最近ですか?7、8年前ですよね。15年経ってますけど…。
山内:でもそうなんだ、実際。だから今、例えばマームとジプシーとかもそうだけど、若手の元気な劇団が「来た!」「来てる!」みたいな感じになるときの…なんかみんなの注目のなかで、幾つかの魅力的な劇団って、どーんと真ん中にいるじゃない。でも、ずーっと端にいたっていう感覚があったんだよな…。
松田:私が「あれ?」みたいに思ったのはさ、東北に最初にツアーに行った後に、東北の人たちが軒並み芝居でふつうにしゃべり始めたみたいなことがあって、
山内:あぁ、それはたしかにあったね。
松田:青年団がやってることって、魅力的だったり普遍的だったりするのかなぁ、って思った。
―山内さんのその感覚って岸田戯曲賞とったこととかでは変わらなかったんですか?
山内:カンパニー的にはないかな。実感としては。少なくとも俺はない。ちょっと認められたかな、というか。
松田:ダメだったときのほうがよく覚えてるかな。なんか、「電話がかかってきても騒がないように」とか言われて、稽古中断して「…はい、ダメでした」
山内:「きょうの稽古終わりです」って。賞とってからのほうが大変というか。周りから潰しが始まるぞくらいの。
―そのくらい孤独な闘いだったんですね。
山内:だから、オリザが劇作家協会立ち上げに参加したのも92年だし、P4(加納幸和[花組芝居]、平田オリザ[青年団]、宮城聡[ク・ナウカ]、安田雅弘[山の手事情社]の4人の演出家からなる集団)で全然違う芝居の人たちとも連携してこうって始めたのも95年だったし、はっきりと、その頃から、芝居が違っても、外に参加しようと始めたのが、90年代前半。
松田:P4なんて何でこの4人なのか全然わからなかったもんね。春の利賀のフェスティバルのときも、劇団の人の行動も4者4様で面白かったし、お互いによかったと思う。違う者同士で。
―そのときの青年団にとって、ものすごい大事な交流だったでしょうね…。
松田:と思う。
山内:それはもちろん大事、そういうのが必要ではあった。でも、さっき言ってた「来てる!」とかとは真逆だったんだよね。いつまでも「こんなんですけどどうでしょうか」っていう。
(続く)















