現代口語演劇その後の展開

前回の続き)

―ちなみに、「韓国三部作」があって『ソウル市民』初演を創った、という流れでいうと、『ソウル市民』を創り始めるときに、「この作品で勝負だ」っていう意識は最初からあったんですかね?みんなのなかに。
山内:うんとね、三部作の総集編、ていうか、いままで発見したことが全部注ぎ込まれてるんだ、ていう自覚はあった。で、だから『海神』再演で一休みしておいて、この作品で勝負だっていう感覚は全体としてあった。僕なりにも、いま思い出せるくらい、実験…脱構築していく1年間、1作1作のテーマっていうのがあって、それを全部ぶち込むんだっていうのはあった。ただ、これから94年、95年(『東京ノート』岸田戯曲賞受賞)までの苦しみの期間は長かった。
―『ソウル市民』初演が終わったときの総括はどうだったんですか?
山内:ここにさ、そのころオリザ父がさ、毎回毎回観て劇評を書いてくれたのがあるんだけどさ、

故・平田穂生さんからの『ソウル市民』初演感想


松田:アンケートにさ、すごいいっぱい書いてくれるんだよね。
山内:…なんか、「切れた」感じはとにかくあった。
松田:「ひとつ抜けた」というか、進んだってこと?
山内:うん、すごくあった。で、この次がもう『カガクするココロ』(1990年)なんだよね。もう、いきなり豊かな時間に変わった、って、はっきり『カガクするココロ』では思ってた。
松田:それで、『南へ』。私、復帰しました。
山内:で話前後するけど、初めて旅、アゴラ以外でやるときも『ソウル市民』だったし、そのあと93年に初めて海外(ソウル、プサン)でやるときも『ソウル市民』だったし、っていう。
松田:さっきの演技の話しだけど、この、最初のころは、うまい/下手とかっていうか、俳優側もいろいろ出来なかったから、オリザのやりたいことや劇団のやりたいことに沿おうとすると、とりあえず小さい声で、ぼそぼそしゃべることしかできなかったんだと思うね。今は、けっこう大きな声出したりとか日常的でない動きもやってるけど、昔それをやったらやった途端に、世界が壊れちゃったんだと思う。ここまでいろいろやってきて、大声出したりしても壊れないくらいの現代口語演劇の世界を、今創れるようになったから、今のほうが面白く見えるじゃないかなと。
―なんていうか、それぞれバックグラウンド、芝居の仕方がバラバラだったんじゃないかなと。この頃、90年代前半に青年団で芝居されてた出演者の方というのは。
松田:たしかに私が転位・21から帰ってきたり、足立(誠)さんや志賀(廣太郎)さんが入ってきたり。
山内:あと僕ら以外みんな学生だったんだよな…。
―ともかくそれを、オリザさんの配置でひとつの作品としてまとめるっていうことを探ることが中心にあったんですかね。稽古では。
松田:私が山ちゃんに聞きたいのはさ、私が来たときは、「全体の見え方は演出の仕事で俳優同士の話じゃない」っていうのは確立されてたじゃん。それはオリザが演出する最初からそうなってたの?
山内:それも今は変わってきても居るけど、当時はそうだったかな。いろいろな要因があるんだけども、ちょうどこのころ、役者間のヒエラルキーみたいなのが、俺がすごく嫌で。「役者頭」っていう言葉があるよね。
松田:…世間にはあるけど、青年団にもあったの?
山内:そういうようなことをやってくれみたいな話があって…でも「役者が役者にどうこう言うというのがあんまり好きじゃないんだよね」みたいなことで俺がそれを断ったんだよね。それはひとつあったんじゃないかな。なんでそれが嫌だったのか、って…それは俺の個性なんだけれども、要するに、演技している人が、どっちかがどっちかを、チェックするような眼差しになる、あるいはチェックされてるような感覚になる、その状況は絶対邪魔だと思ったんだよ。でお互いなにか言って、言うときってやっぱ闘いになりがちだったから、どっちが正しい/面白いということで。そこにちょっとした「この人は人気があるから」「キャリアが長いから」「歳が上だから」とかそういうのがちょっと入ったりすると、あっという間にパワハラになって、ただでさえ「目が芝居する」ことを取り除こうというときに、その相手にチェックされるみたいなことも、脱構築したかったんだよね。
松田:じゃあ、山ちゃんの、俳優の側からそういうふうにしていったんだ。
山内:それもあって、オリザの「割り付け」「囲碁」のイメージと、僕の志向が合った、ということだろうね。
松田:今はもう違うってこと?
山内:たぶん違うと思うよ。みんなお互い言い合ってると思う。みんな言い合うのは上手になったし、それだけ脱構築された後なんだよ。僕はそう思ってる。
…で、「どっち向いたらいいですか?」とか言うような、外から見たら驚愕するような状況になっていったんだと思うよ。
松田:私が戻ってきたときにはそうなってたからね。
―ちなみに、89年から91年くらいのときに、間を秒数で指定するような演出は、もうできてたんですか?
松田:あったと思うけどね、どうだったかな。でもさ『南へ』は劇場のエレベーターも使ってたからさ、確実にあったと思うんだよね、秒数的な演出。
山内:そうだよね。…そうそうそう、ちょっと話それるけど、あの、僕の個人的な意見なんだけど、93年の『ソウル市民』の韓国公演で、団員全員ハングルを覚えたじゃない?
松田:うん。
―聞いたことあります。
山内:そのときに、体と言葉を分けて芝居をするっていう体感は、できてたから膨大な量のハングルでの演技が実現したってのはあると思うんですよ。つまり、「言葉のほうにいくら負荷をかけられても平気だよ」っていう自信が出来かけてる。地点とか観てさ、ものすごい負荷がかかってるじゃない、言葉に。あれに似たような作業が、いくらでも耐えられるんじゃないかみたいな、アスリートみたいな気分があったのは確かなんだよね。だからハングルで、台詞を音として記憶して、体のなかに打ち込んで、「体と分離して芝居できるくらいの負荷は耐えられるぜ~」っていう、
松田:しかも「昼:日本語公演、夜:韓国語公演」とかそういうことやってたからね。
山内:っていうのが93年の『ソウル市民』のハングルのときだった。だから…そのあとの93年の冬の『暗愚小傳』のときにはもう、「頂点とった!」くらいの気分…体と言葉の分離具合と、エネルギーと、空間での遊び方と、「これができるのは世界で俺ひとり!」ってくらいのアスリートな気分はあったんだけど。
―『カガクするココロ』は、去年観たときに、ほんとにそういうことを楽しんでる感じの本なんだな…と思っていて。言葉が、「目の前の1人の相手に言ってる」のか、「2人まとめてに言ってる」のか、「聞こえてるよね」って感じで「空間にほうり投げてる」のか、独り言なのか、とか…言葉が細かく、ピースの積み上げ方でいろんな遊びが細かく連なっていて、そういうことにこだわってた時期というか。
山内:そうそう、まさにその通り。だから『ソウル市民』初演の次からその方法論を遊ぶこと、一気に「遊びタイム!」に入ったんだよ。それはあるんだよね。
松田:なんか前に言ってたよね?「90年代初めのオリザの戯曲は…」どうのって、
山内:そうそう、思い出した。それでさ…93年で天下とったと思ったんだけども(笑)、94年の『東京ノート』でまたガラッと色が変わったんだよ。『東京ノート』以前の戯曲は、裏読みがしやすいというか、サブテキストが作りやすかったというか。「こんな会話をしてるけど、ほんとはこんな事件が起こってますよ」っていう、出来事がつくりやすかったんだけども、『東京ノート』以降は出来事が作りにくくなっちゃったんだよ。
松田:書いてあるからね、全部、
―裏で展開するプロットがなくなっちゃった。
山内:身も蓋もなくなっちゃったんだよ。でしばらく再演が続いて、いよいよ『バルカン動物園』(1997年)なんてさ、もう出来事がなくなっちゃって、科学的なおしゃべりだけになってさらに身も蓋もなくなっちゃった。
松田:『カガクするココロ』は一見科学のお話をしているけど、裏読みすればどうとでも読めるんだけど、『東京ノート』とか『バルカン動物園』は、ともすれば浪花節にでもなっちゃうようなストーリーがもう戯曲に書かれてるからさ、
―プロットが1枚になっちゃった。
山内:ともすれば「お涙頂戴」みたいな。それもそうかもしれない。
松田:たださ、その薄い、単線のストーリーの周辺で、いくらでも豊かにしていけるから、裏で勝手に仕込むんじゃなくて、それに乗っかって、いくらでも豊かにしていけるってことに変わっていったってことじゃないかな。
山内:それはそうかもしれない。ただ俳優としての印象はすごく変わったと思う。
―さっき、「『ソウル市民』初演の後、94年、95年まで長かった」っていったような…フラストレーションというか、そういうことってのは、どうなったんですか。『北限の猿』で岸田賞ノミネート、95年に『東京ノート』で岸田賞受賞となるわけですけど、フラストレーションというかはいつ晴れたんですかね?
山内:それは…岡田(利規)さんの登場だったんだよね。やっぱり。岡田さんは、自分は平田オリザの影響を受けているって公言したんだよね。公言して、先に進む人が出てきたとき。
―そんなに最近ですか?7、8年前ですよね。15年経ってますけど…。
山内:でもそうなんだ、実際。だから今、例えばマームとジプシーとかもそうだけど、若手の元気な劇団が「来た!」「来てる!」みたいな感じになるときの…なんかみんなの注目のなかで、幾つかの魅力的な劇団って、どーんと真ん中にいるじゃない。でも、ずーっと端にいたっていう感覚があったんだよな…。
松田:私が「あれ?」みたいに思ったのはさ、東北に最初にツアーに行った後に、東北の人たちが軒並み芝居でふつうにしゃべり始めたみたいなことがあって、
山内:あぁ、それはたしかにあったね。
松田:青年団がやってることって、魅力的だったり普遍的だったりするのかなぁ、って思った。
―山内さんのその感覚って岸田戯曲賞とったこととかでは変わらなかったんですか?
山内:カンパニー的にはないかな。実感としては。少なくとも俺はない。ちょっと認められたかな、というか。
松田:ダメだったときのほうがよく覚えてるかな。なんか、「電話がかかってきても騒がないように」とか言われて、稽古中断して「…はい、ダメでした」
山内:「きょうの稽古終わりです」って。賞とってからのほうが大変というか。周りから潰しが始まるぞくらいの。
―そのくらい孤独な闘いだったんですね。
山内:だから、オリザが劇作家協会立ち上げに参加したのも92年だし、P4(加納幸和[花組芝居]、平田オリザ[青年団]、宮城聡[ク・ナウカ]、安田雅弘[山の手事情社]の4人の演出家からなる集団)で全然違う芝居の人たちとも連携してこうって始めたのも95年だったし、はっきりと、その頃から、芝居が違っても、外に参加しようと始めたのが、90年代前半。
松田:P4なんて何でこの4人なのか全然わからなかったもんね。春の利賀のフェスティバルのときも、劇団の人の行動も4者4様で面白かったし、お互いによかったと思う。違う者同士で。
―そのときの青年団にとって、ものすごい大事な交流だったでしょうね…。
松田:と思う。
山内:それはもちろん大事、そういうのが必要ではあった。でも、さっき言ってた「来てる!」とかとは真逆だったんだよね。いつまでも「こんなんですけどどうでしょうか」っていう。
続く


韓国文化と囲碁がベース?

前回の続き)

山内:いま春風舎でさ、五部作の稽古でも「ごはんだけはあるから」ってやってるんだけど、来れば、食べられるという。
松田:3月の地震のときもアゴラ事務所でやってたね。
そうですね。
山内:あのね「ごはんだけはある」っていう風な、そういうコミュニティの考えがあるんだよね、オリザの中に。「米だけはあるから」って言って、アゴラ劇場5階の稽古場に当時必ず炊飯器があって、
松田:各自おかず持ってきたり買ってきたりして、
山内:ああ!そうだ…思い出した。韓国三部作のときから…思い出したよ、5階の稽古場になったんだよ。
松田:それまでどこでやってたの?
山内:その前は三鷹でやってた。オリザの演出になってなにが変わったって、5階で稽古場するようになって。それでごはんを炊いて、韓国三部作だからってのもあったんだけど。
松田:劇中で食べるからね、ごはんを。
山内:「ごはんとキムチだけはある」っていう状況をつくりたかったんだよ、オリザが。それはね、韓国だよ。考えてみたら。
松田:ああ、自分が韓国に留学に行って。
山内:韓国で、儒教社会で、縦社会なんだけど、「パブモゴッソ?」て言って
松田:「めし食ったか?」って、これが、挨拶なんだよね。
山内:挨拶なんだよ。で、それで、「食べてないなら食わしてやるか」っていって「ごはんとキムチだけは人間の権利として食べてもいい」みたいな文化、基本的人権みたいなのがあるんだよ。ソウルで。おばちゃんが声をかけてたり、先輩が「おまえ来い、めしとキムチは食わしてやるから」っていう感じで。だから、韓国コミュニティだね、これは。
『光の都』くらいから、ずっとアゴラ5階で稽古するようになったんですね。
松田:夜稽古だった。
山内:そうそう、大事なことを忘れてた。『ソウル市民』初演の時は俺は(篠崎)慎二の役じゃなかったんだよ。書生の役だった。書生が3人いて。台詞も違うっちゃ違うね。
松田:アゴラ逆使い(入口側が舞台)でやったんだよね?このとき。
山内:そうそうそう。客席のひな壇が高くてすごく観やすかったんだよ。で、調光スペースのところを格子でうまく隠してた。
松田:うん、観やすかった覚えがある。
山内:だから91年の再演のときから、俺、慎二の役で。ほぼ台本もそこで固まってる。
松田:そんときから私も出てるんだ。旅に行ったよね。
山内:だから『ソウル市民』が22年目だけど、初演の本は書生の部分がまあ違うっちゃ違う。で、91年の再演からほぼ現在の形になった。今朝台本読み直してみて、びっくりしたんだよ。「この台詞をこの人が言ってたんだぁ」とか。
松田:ああ、そういうのあるよね~。91年の『ソウル市民』で初めての旅公演だったんだよ。
山内:ほんと代表作だったから、節目節目で、ここ一番では必ず『ソウル市民』でやってたんだよね。初めて旅公演をする、アゴラ以外で公演をやる、ということの意味というのをちょっと話したりしてたな。じゃあどこでやるのか、と。
ふむふむ。
山内:というときに、当時言われてたいわゆる「すごろく」(小劇場から紀伊國屋ホール・本多劇場に進むような劇団の発展)とは俺たちは関係ないよね?みたいな話をずっとしてた。それで、その後、東京でアゴラ以外で初めてやったのが92年のSEEDホール(『さよならだけが人生か』)だったんだけど、今で言えば、個性の強い…プロデュース力の強い劇場みたいなのを探してた、てことだろうね。昨日、藤田くんと話してたんだけど、僕が以前、マームとジプシーにSTスポットを拠点に展開することを勧めたのは、東京で消費されるなかで消耗戦をするのは惜しいし、距離的に横浜が近いから(桜美林大学から)横浜のほうがいいんじゃないの、て話をしたのは事実なんだよね。いまの東京の演劇状況に対するSTスポットの立ち位置っていうのは、アゴラと似ていて。
松田:あの、人がいる感じの場所。で、山ちゃんとかオリザが日本中に演劇を観に行ってたわけでしょ。
山内:それで、青年団が初めてアゴラ以外で演劇やったのが、なんと仙台だったというわけだよ。エルパーク仙台での『ソウル市民』。
松田:それも、ふつうだったら、旅公演ていったら関西に行くみたいなのがあったんだけど、そうじゃなくてどこに行くかちゃんと考えようって。
ああ、今でもあんまり東北ツアーって多くないですよね。西のほうに行くのに比べると。
山内:あと、オリザの発想って「囲碁」だと思うんだよね。
松田:考え方が?
山内:そう。局地戦もあるけれども、全体の模様を見るという。
松田:囲碁やるんだよね。あと、おばさん(オリザ母)も。
山内:そうそう。
ああ、こっちで少々、あっちで少々、って地を稼ぐのが囲碁ですよね。
山内:でトータルでこうなってる、という。それを、演出に感じたんだよね、最初のころ。俺は俳優だから、局地戦で生き死にのことだけを考えてるから、全体が見えないのはしょうがない、って考えてた。
松田:それいいね。今度から説明に使える。
―たしかにわかりやすいですね。将棋は全体の模様が悪くなっても王様を取れば勝ちですからね。柔道でいう「一本勝ち」がある。囲碁は「一本」があまりないですよね。有効、効果、技ありの積み重ねのほうが強い。
山内:なるほどなるほど、まさにそういう感じ。『ソウル市民』の初演のときに強烈に残った印象はそういうことだったね。
続く

松田弘子


現代口語の演技は”楽”じゃない

前回からの続き)

山内:でもなんか、なんだろな、演技で、小道具とかを見て「この切れ端が面白いな」と思うこととか、そういうことの「今」みたいなのがエネルギーになる、ってことに気がついたんだな。そんときも、木之内さん(木之内頼仁さん/当時転位・21に所属)の発言を、マチコから聞いたりした気がする。「メガネのツルを見てるんだよな」とか。
松田:そうそう、まさにいま私もそれを言おうと思ってた。木之内さんがそういうのやってるって言ってたの。なんか「ウワーッ!」ていうシーンでも、「相手役の人のヒゲが伸びてるな、とか見てればいいんだよ」って言ってた。
山内:それと『漢江の虎』のどっちが先かよく覚えてないんだけど。で、その後、十何年後に新劇の人と芝居して、「山内さん、目が芝居してない」てすごい怒られたことがあって…まさにその通りで、目が芝居するのやめたんだろうな、『漢江の虎』で。
松田:ふーん。え、でも「目が芝居する」ってなにかに入っちゃうってことかな?
山内:具体的にはよくわからないけど、でも、見たらわかるんじゃないの。例えば「瞬きをしないで相手の目を見続けてる」とか。昔はそういう人ばっかりだったから。
松田:逆に今、「お芝居になるとなんかお芝居用のコーティングされたいい声になるから、それやめてください」とか言われるね。それみたいなことかな。
山内:そういえば電話で話すときの女の人の声についても、マチコと電話で話したような気がするな…。
松田:電話で電話の話?ああ、女の人は電話に出るとき声が高くなるって話。あれほんとに、しゃべってる本人は気づいてないけど、高くなってるんだよね。
山内:で『光の都』『漢江の虎』があって、『花郎』。『花郎』は『さよならだけが人生か』のもとになったやつ…なんかすごい楽しかったんだよな。『花郎』のときの俺のテーマなんだったっけかな?
松田:1個ずつテーマあるんだ。
山内:あったあったあった。あんときは…
松田:『さよならだけが人生か』と同じ役だったの?チンチロリンとかやってたよね。
山内:あ!…そうそうチンチロリン。(…と、台本を見る)韓国三部作は全部役名が韓国人なんだよね。これがほんとに、その全編『欲望という名の林檎』のその追加シーンみたいな感じで、ずっと同じ部屋で動かないやつで、すごく楽しかった。その次の『海神』のときに、ルーレットの話が出てきて。それについてはオリザがエッセイも書いてるんだけど、「確率が、あまりにも低いことはやらない」とか。
―『地図を創る旅』には、この『海神』が観客動員的にどん底だった、て書いてありますが。
山内:そうそう。ステージ数も少なかったから、動員300人…一番少なかった。
松田:へぇ、面白かったのにねぇ。
山内:そういえばなんか『海神』のときに、岩城(保)と話した記憶があるな、照明の話…「舞台の上に俺、吸う空気がほしいんだよ」みたいな話をしてて。舞台照明って、「デザインされて当てられる」みたいなのがその当時ふつうで、「青く染められて下からホリゾントライトが来る」みたいな感じで。なんかそういうのじゃなくて、舞台上に「ここで私とあなたが見ているものは同じ」みたいなこと、「舞台の上に平等な空気がほしい」、みたいなことを岩城と話してた。
なるほど。
山内:そんなこんながあって、『ソウル市民』だったわけですよ。
松田:私はその頃居なかったけど、転位・21にいて、たぶん共通してたのは、いわゆるお芝居のしゃべり方じゃないのをやる、ていうことで、
台詞をうたうように言うか/うたわないか、みたいなことですね。
松田:大学でやってたのは、そういう「うたう」系の芝居だったから、最初に転位・21でやったときは、ふつうにやってると思ってやってたら、「いやいやそういうことじゃないんだ」って言われて、ぶつぶつしゃべるというか、「石ころを噛むみたいに言葉を言わなきゃいけない」とか。
山内:「石ころを噛む」って?
松田:「自分がその気になって言うんじゃなくて、他人の言葉なんだから、異和感をもって、口の中で噛むようにいわなきゃいけない」とか、「直接相手に言うんじゃなくて、何か他のものにぶつけて、三角形の2辺のように、間接的に伝えるんだ」とか。話し言葉と自分の距離感とか、相手との距離感とかを大切にとかそういうことをやってたから、出てくるものは違うけど、引っかかってるところは同じなんだな、と思って、興味もって観てた。青年団も。
山内:あのー…『東京ノート』の初演(1994年)で、あれが初めてNHKでも放映されて、「役者がものすごい下手だ」とかけっこう言われてて、どこかでは「現代口語演劇は役者が下手だからこういうふうになったんだ」みたいなことを、けっこう公然と言われてて。そうではないと言いたい…まあ百歩譲って芝居が下手だっていうのは認めるとして…なんていうか「ヘタ転位」(下手な転位・21の芝居)だったんだね、みんなね。そうだと思うよ。
松田:問題意識はあるけど上手じゃなかったみたいな。でも私「下手」ってよく言われるんだよ。10年くらい前に客演した作品でもアンケートに「他の人はみんなうまいけど、主役の女の人だけなんであんなただの主婦を連れてきたのか」って。
大変ですね…(笑)。いまだに「うまい演技」って何だ、ていうことにもなるわけですけど。
松田:演劇観たこともやったこともない人が、ワークショップとかでやると、前を向いて大きな声で「私は!そのときっ!」ってなるのはどうしてなんだろう。なんかみんな、演劇とはこういうものだ、っていう思い込みがあるよね。
山内:今もある。
松田:そういうことで言えば、”下手”ではある。逆に、あんまりはっきりしゃべらないようにしてるし。
山内:うん。
松田:「人みたい」じゃなくて、「俳優みたい」になっちゃうから。
山内:そう…こういう語彙は、やっぱり転位・21から来てると思うんだな。でさ、マチコが青年団に戻ってきてさ、『南へ』(1990年)に出たときにさ、だれかに「楽して芝居しやがって」て言われた、って泣いてたじゃない。
松田:そうだっけ。
山内:そのときさ、なにが楽だったのかな?
松田:うーん、楽でもなかったけどね…まあ、物理的には、体の態勢は楽だったけど(笑)。逆に、やりにくかったのを覚えてるんだけど。あの、稽古でなんかやってて、ちょっとわからないことがあると、俳優がすぐオリザに聞くんだよ。「ここでどっち向くか」とか「誰にしゃべったらいいのか」とかさ。だから「まず自分で考えていろいろやってみればいいのに」と最初思ってて。
何が俳優の仕事で、何を演出に任せてるか、っていうのが違うから。それは転位・21と青年団の違いっていうよりも、大学から含めて、別の演劇と青年団の演劇の違いはそこかなと思う。
あとショックだったのは、台詞がうまく言えないと、オリザが「う~ん」てちょっと考えて、すぐ台詞を変えるのね。だから「明日もう1回くらい稽古すれば…2、3日稽古したらうまく言えるのに、なんで変えちゃうんだろうな」って、俳優として信用されてないような気がしてちょっとしゅん、ってしてたけど。それは、オリザは自分が書いた台詞がダメだから、俳優が言えないから変えるんで、俳優とは関係ない。いまだったらわかるんだけど。
あと、食器を…「自分の食器は自分で洗う」っていうきまりがあって(笑)。みんなでごはんを食べてて、流しで後ろに並んでたから「一緒に洗うよ?」っていったら、「いや、自分で洗うことになってるんで」って言われて、しゅんとなってた(笑)。
(笑)
続く

山内健司



 


『ソウル市民』以前/現代口語演劇前史

―このインタビューでは、1989年初演から現在まで『ソウル市民』シリーズのこと、それに加えてその『ソウル市民』初演のときに出来上がったと言われている「現代口語演劇」について、おふたりが役者として感じてきたこと、考えていたことをお伺いしたいと思っているんですけど。
松田:青年団が「現代口語演劇を始めた」っていうのって、『ソウル市民』より前だったんだよね?
『地図を創る旅 -青年団と私の履歴書-』(平田オリザ著/白水社刊)にもそう書いてありますね。
山内:…いやぁ、今日は俺、なんか「生き字引」みたいになっちゃうんだろうけど…うまく話せるかわかんなくてさ。今朝ちょっと考えだして、初演の台本を読み出したらさ、ぶわぁっ、ていろんなことが蘇っちゃって。ふつう、こういうインタビューって話すことを考えてしゃべるんだけど。…えっと『ソウル市民』は最初が89年で、その次は91年、93年、99年、2006年ていうふうに上演されてきてるんだけど、
松田:私は『ソウル市民』初演のときは青年団を離れてて、公演は観てるんだけど、出てるのは91年から。
山内:「現代口語演劇」について言うと、その前の88年3月に『光の都』っていう作品をやって、
松田:ソウルオリンピックの直前みたいな時だよね。
山内:そのあと88年の7月に『漢江の虎』、12月に『花郎(ファラン)』、89年の3月に『海神』をやって、それが、『ソウル市民』への流れとしてあって。『光の都』『漢江の虎』『花郎』ていうのを「韓国三部作」って呼んでたんだよね。
あの頃、『光の都』の前に、『ケーニヒスベルクの橋』(87年10月)て作品をアゴラでやって、当時青年団は80年代小劇場ブームっぽい元気な作品をやっていたんだけども、なんか火が着かない感じはあったんだよね。
その後、僕が演出して『欲望という名の林檎』(12月)というのをICU(国際基督教大学)の学生でやって、そこでも着火しない感じがあったんだけれども、その中で、オリザが「山内、ちょっと変なシーン書いちゃってさ」て追加で持ってきて…、(と台本を開く)あったあったこれこれ、ここのシーンだけ、他の小劇場的な感じと突出して変わったシーンだったんだよ。今と同じリズムで台詞が書かれてる。
僕は演出をこの1回しかやったことがなかったんだけども。ほかのシーンは俳優がどう芝居を立ち上げていくか、ていうことを考えていたんだけど、そのシーンだけ…「割り付ける」感じがしたんだよね。言葉とか人を「割り付ける」感じがして、それでその関係性でどんどんシーンが面白くなっていくっていう、そのシーンの演出がすごく楽しかったのを覚えてるんだ。
で、『光の都』からいよいよ本格的に始まるんだけども、
松田:じゃあ、山ちゃんとしては『光の都』は全編このシーンみたいな台本が来た、って感じだったんだ?
山内:そう、まさにそう。『光の都』のときに、初めて「小さな声でしゃべる」てのを舞台でやって、あれがね、すごい嬉しくて。「これで人がそこにいるよ!」って。あと「後ろを向いてしゃべる」っていうのも『光の都』のときだと思うんだけど。これが大きな事件だった。…それ、きっかけはひとつ、「転位・21」とか山崎哲さんがあったんだよ。
たしか紀伊國屋ホールで東京乾電池がやった『まことむすびの事件 -豊田商事事件-』(作:山崎哲 演出・岩松了 柄本明)というのを観て、柄本さんが小さな声でしゃべってるのを観て、衝撃を受けちゃって。紀伊國屋で後ろのほうだったから全然聞こえないんだけども、「柄本さんがそこにいるよ!」ってものすごい感動して。それに対する憧れって、『光の都』には確実にあったような気がするね。
松田:その頃私その山崎哲さん主宰の転位・21という劇団に居たんですよ。
そうなんですね。
山内:この頃さ、夜中によく電話で話したじゃん、マチコ(松田のニックネーム)泣きながらさ。
松田:稽古の話とか。アパートの壁が薄くて隣に丸聞こえだから、外の公衆電話からね。
山内:すごい覚えてるのが、「怒るっていうときに、全部感情をぶちまけるっていうのは甘えだよね。甘えられる関係だよね」って話。「ふつう怒ってるときは、どういうふうにそれを相手に伝えるか/伝えないか、っていうことを考えてるんじゃないの」とかいう話を延々としてたんだよね。すごい覚えてる。
松田:具体的には覚えてないんだけど、そのことで山崎さんが言ってたのは「泣くっていうことは、泣くまいとすることだ」っていう。
山内:あ、そうそう。
松田:「泣いてますー!!」ってアピールするんじゃなくて、「泣かないぞ~…」ってのが泣くことだっていう。自分の中に拮抗する力がなくちゃダメだ、と。
山内:その頃、マチコが転位・21にいるっていうのがすごい嬉しいことではあった。僕らにとって。で一方、青年団は青年団でがんばるか、っていってやってて、だから『光の都』で「小さい声でしゃべってもいいじゃん」みたいなことを見つけた、というのはすごく嬉しいことで。
松田:あれ何かさ、照明もすごい長いフェードがあったりして。
山内:夜明けで、15分くらいかけて明るくするとか。「夜明けだから」って…なんだそれ?(笑) それで、そのあとの『漢江の虎』で…これ、誰にも言われてないし、誰とも話してないんだけど、「舞台の上で何もしない」ってのをやってみようと思ったんだよね。
松田:自分が?俳優としてってこと?
山内:そうそう。何かのシーンで後ろ向いて、考えてる…みたいなシーンだったのかな?で、演技というのを完全に何もしないで「これ、見てる人には考えてるように見えてるかもしんないけど、俺は何にもしてないんだよな(笑)」って。たとえばただ床の筋を見てる…みたいな。
松田:え、じゃあそれは、何もしないで、そこには「山内健司」が立ってたの?
山内:あんまり「これは誰なの?」とかは考えなかったんだよね。どっちかっていうと、演技で時間を進めてく、っていうのが疑わしいなと思っていて。自分で時間を背負ってくみたいなのが。
松田:じゃ、「ここは誰かに任せた」みたいな感じ?
山内:うん。だから「どう見たって俺はここ居るんだよな」みたいな感じのことをやりたかったんだな、きっとな。
松田:それさ、いまでもやるでしょ?わりと。
山内:ああ、でもやるかもしれないね。
松田:あの、この人のひどいところはですね、舞台で、お客さんに背を向けてるときにね、完全に…(演技を)やめてるときがあるんですよ!(笑)。ニヤッとしたりするんですよ!(笑)。
山内:そんなことはない、そんなことはないよ!
(笑)
続く

左から松田弘子、山内健司


(インタビュアー:野村政之)