29日(火)
朝、今日はバスで、またしても羽田へ。
10時台の飛行機で那覇に。防衛省の官僚の暴言で渦中の沖縄ですが、別に政府の仕事ではありません。
3時から5時半まで、県の文化観光戦略の会議に出席。
そのあとは、沖縄に来ているというのに、ずっとホテルで原稿書き。
あぁ、あとこの日は、ついにできてきた想田監督のドキュメンタリー映画「演劇」のラフカットを見たのだった。
途中、国際通りに食事のために散歩に出る。沖縄は蒸し暑いです。
この日、ジェミノイドを使った日本語教育のテキスト脱稿。
30日(水)
朝10時から12時半まで、文化発信拠点(要するに県立劇場を作るかどうか)の諮問委員会。
すぐにモノレールで空港へ。空港で沖縄そばを食す。
2時過ぎの便で大阪へ。大阪はやっぱり寒いですね。
空港近くのホテルにいったんチェックインしてから大学へ。
研究室で少し残務処理。
ホテルに戻って、深夜までメールの返信。
12月1日(木)
朝、ホテルからの送迎バスに乗って空港に出て、そこからモノレールで吹田キャンパスへ。
10時半から12時半まで会議。私は13時から豊中で授業なので、中座させてもらいました。
私も、一応中核のメンバーになっているリーディング大学院という大きなプロジェクトの「オールラウンド部門」で、大阪大学が採択されました。他に採択されたのは、京大と慶応の計三校のみということで、東大を破っての採択ですから、本当は手放しで喜んでいいのでしょうが、あまりに大きなプロジェクトなので、当事者はみんな不安げな様子です。まぁ、めでたいのだろうけど。
私は、アートによるリーダーシップ養成のようなことを担当します。未来のトップリーダーたちに、できるだけアートに触れてもらうのが私の仕事です。
今日は、それの採択後初の会議でした。
昼休み学バスが、ものすごく混んでいました。
13時から授業。そのあとは研究室で仕事。
17時、学バスで再び吹田へ。
ちなみに阪大の先生方の多くは、車を持っていて移動しているようです。どうもそれが前提になっているので、私のように学バスを使う者には不便きわまりない。モノレールの駅は遠いし。
18時から21時まで2コマぶち抜きの授業。
モノレールで空港まで行ってホテルへ。
2日(金)
朝の飛行機で帰京。羽田からバスで小岩に出てから、総武線で船橋へ。
今日は船橋で市民活動フェスタの基調講演とシンポジウム。
アートによる復興支援をしている仙台のARCTの鈴木さんに会う。帰りも秋葉原まで一緒だったので、いろいろ情報交換ができてラッキーでした。仙台にも顔を出さないとなぁ。
そのまま総武線から中央線快速に乗り換えて吉祥寺へ。『サンパウロ市民』上演前に到着。
2階ロビーで、『革命日記』の旅公演についてのミーティング。続いて面接二件。
終演後、挨拶もそこそこにアゴラに戻って、来年の『月の岬』の美術打ち合わせ。
さらに、アゴラに来ている渡辺源四郎商店の畑澤さんと打ち合わせ。
近所の焼き鳥屋さんで劇団員が飲んでいたのでちょっと顔を出す。
三日ぶりに帰宅。
3日(土)
朝から、雨で出かけるのがいやになる。
が、気合いを入れて、早稲田大学に行って言語文化教育学会の基調講演とシンポジウム。
朝10時半から昼食を挟んで夕方5時半までの長丁場でした。
渋谷で、眼鏡をゲット。
そのまま劇場に。
本日で旧三部作は千秋楽。
軽くプレ打ち上げ。『ソウル市民1919』組も合流。
眼鏡変わりました。

ヨーロッパと日本の演劇の距離感/移民について
(前回からの続き)
山内:志賀さんさ、オーストリアとドイツに何年くらい住んでたの?
志賀:えーと、全部合わせると3年ちょいぐらいかな。
山内:どういう心持ちで暮らしてたんですか?
志賀:うーん、どうだろ…。
山内:「日本に帰んないかもしれない」とか思った?
志賀:それはないね。
松田:いくつくらいのとき?
志賀:24…くらいかな
山内:24~28歳くらいか。
志賀:そうそう。
松田:それで日本語教えてたの?
志賀:いや、アルバイトみたいなもので、日本人学校で国語を。
松田:なんで行ったんですか?24歳のときに。
志賀:あの、やっぱり芝居絡みっていうか、自分がやってることが、翻訳劇っていうか…特にブレヒトが近しかったんだけれども、純粋に「向こうでどうやってるんだろう?」っていうのがね、気になって。
その、新劇的なる演技術だとか何かっていうのが、本物なのかどうなのかっていう。その時には全然意識してなかったんだけれども、その頃から、いま青年団でやってるようなことを、沸々と考えてたんだと思う。あと、とっかかりが、体操競技が好きだったから、そういう動きのなかから、別の側面から、動きを捉えられるかも、とか。
山内:元・ロマンチカの原サチコさんが、2000年くらいからドイツに行って、今、州立劇場の専属俳優になったりしてるんだけれども、例えばそういうようなことって考えなかった?そういう人生。
志賀:いや…そこまでの考えはないかな。聴講で演劇学校に行こうと思って試験を受けたんだけれども、ダメだった。余程じゃないと無理だね、ドイツでは。衣装だとか、スタッフ関係の仕事なら、あるようなんだけど。
松田:それで、「ブレヒトだとか、ドイツではどうなんだ?」って行って、どうだったの?
志賀:最初に入ったのが、ホームステイで日本人に理解がある人だったんだけれども。あの、だから、あまり、芝居を観てるのと、自分がそこで生活してるのと、っていうのが、乖離してないんですよ。離れてないんですよ、舞台から受ける印象が。
松田:ドイツだと。さっきの山ちゃんの話の「奉る、崇めるみたいなのがある」っていう感じがないってこと?
志賀:「地続きだなぁ」っていう。「あ、だからやっぱりそうなんだよね」と。
松田:そうじゃないかと思ったら、そうだったと。
志賀:そう。それから、ウィーンに移って、ウィーンの民衆劇なんか観てても、こっちはこっちで非常にデフォルメしたような芝居もあるんだけれども、あの、なんだろ、…えーと、例えば吉本(新喜劇)を観てるみたいな感じっていっていいのかな?、そういう感じかな。
山内:それは大衆的な劇場?
志賀:大衆的なところ。まあ、フランスのブールヴァールとも違うと思うけど。…だから、そう、地続きっていう感じ。そういうときにやっぱ「私たちが普段やってる、日常的な動きみたいなのものが、もっとベースになって行かないといけないんだよね」って。
―へー。
山内:いまね、竹中香子ちゃんがついに、ね。
松田:そうだね。桜美林の卒業生なんですけど、フランスのコンセルヴァトアールに試験受けて入った人が行ってる。
志賀:そうなんだ。あの頃は、あの、俳優っていうのは、全然仕事がない、っていう感じだったけど、演出の勉強で、というような人はいたね。
―なんで今、山内さんこの話をしようと思ったんですか?
山内:いや、移民の話なんだけどさ。いや、ここ数年、割と長くフランスに居てさ、例えばビジネスマンにしても、韓国人とかだったら、骨埋める気で来るわけさ。もう家族全員で住むと、こっちの人になるんだ、と。でも日本人の場合はさ、そうじゃない。やっぱ帰るんだよね、「いつか帰る」と。だから、チャイナタウンとかコリアンタウンとかはあるんだけれども、日本人街ってのは、ほんとに「フランスを好きな日本人の通り」みたいなのしかなくてさ。「日本人が移民するってのは、もうないんだろうな…」って思うんだけどさ。…だから、よく考えるのはさ「自分が海外で暮らすなんてことはあるのかな?」と。
―日本人の移民、ないとは言えないと思うな…。たぶんあると思います。これから。
志賀:国としての事業としての政策、っていうのはないかもしれないけど、
―自由移民で…絶えず…
山内:じゃあ、日本人街ができるのかな?
志賀:ああ、どうかな、それは。
松田:あと、まあ、日本人街を作りたいような人が移民するか、っていうこともあるんじゃないですか。日本から出ていくとすれば、日本が合わなくて出ていく、とか。
山内:じゃあ、同化していくのか、現地に。
志賀:友達でいまタイに暮らしてる人が居るんだけど、それはちょうど、たまたまタイに赴任してるときに会社が潰れちゃって、家族に「どうしよう?」って聞いたら、本人は帰るつもりだったんだけど、「こっちがいい」って家族が言ったんで、そのまま居ついちゃって、向こうで仕事してる。
山内:そうか、タイは移民が日本人多いんだよね。そういえばそうだ。
―まあ、『眠れない夜なんてない』(2008年/仕事をリタイアしたあと、マレーシアに移住した人々を描いた)じゃないですけど、東南アジアだったら、理解できるような気がする。ヨーロッパだったら、なんか無さそうだけど。
山内:あの作品の施設はある種の日本人街だよね。
松田:『眠れない夜なんてない』みたいな世界だったら、気候もいいし、物価も安いし、というそういうことですよね。老後。
山内:だから、働いて生きていくっていう感じじゃないんだよな…あれは。
―でも、若い人も出てくるじゃないですか。それであのまま…
山内:でも、どうなんだろう、旅で沈没して、そのまま現地に同化して住んでいくっていうのと、サンパウロとかハワイ、アメリカ西海岸とかの移民っていうのは、根本的に違うような気がする。
―ああ、それはそうですよね。要は、まだ日清・日露戦争以降の移民って、結局、日本の経済力もないから、逃げるように新天地を求めて移民した、みたいな感じがあったんじゃないかな…。
志賀:だから、「3年で帰れるとみんな思ってた」っていうのは、つまり出稼ぎの感覚だよね。
松田:一旗揚げて…みたいなね。
―満州行った人もきっとそうですよね。
志賀:そうだよね。
松田:農家の次男とかが、行くとか。
(続く)










